あなたの目に映る私、私の目に映るあなた: 日本の風土における療法的関係

 この夏、当ジャーナルの編集長でもあるCarolyn Kennyが日本を訪れ、国立音楽大学で “Beautifying the World”という講演をした。その貴重な内容については近々出されるという彼女の出版物に譲ることにし、その講演の最後に、聴衆の質問に答える形で彼女が言った言葉を紹介したい。質問は音楽レクリエーションと音楽療法の違いについてであり、彼女はこう答えた。「レクリエーションの目的は、しばしばactivate(=活性化)することです。それに対して療法の目的は、relationship(=関係)をつくり、維持することです」。

 レクリエーションと療法に関する質問は、未だ成熟したとは言えない日本の音楽療法の現場においてこれまでも数多く繰り返され、さまざまな答がなされてきたが、このKenny の答は私にとって最も印象深いもののひとつであった。

 「療法」という領域のアイデンティティを定義づけるには、様々な切り口があるだろう。たとえばブルシアは「変化」「プロセス」「健康という目的」「系統だった介入」といったさまざまな要素を挙げ、詳説している(Bruscia,1998)。しかしその中でKennyが敢えて「関係」というたった一つの言葉を即座に選んで回答したことに、私はインスピレーションを受けた。そして、この「関係」ということについて考え始めた。

 「人と人の間の関係」と一口に言っても、その在り方には壮大な宇宙が広がっている。そしてもちろん文化によっても大きな、かつ微妙な違いがあるだろう。私は主に日本社会とアメリカの社会の両方に関わり、カルチャーショックとカウンターカルチャーショックを揺れ動きながら音楽療法と向き合ってきたが、そのプロセスの中で、「人と人の関係」の質や深さの多様さについて感じた驚きや疑問は数知れない。そんな16年間を経て、最近私が深いインスピレーションを受けたもうひとつの言葉を次に紹介したい。

 「若い頃は、自分とは誰だろう、自分らしい生き方を実現するにはどうしたらいいだろうということを常に考え、自分探しをしていたように思うが、最近、自分のまわりの人の目に映る自分は誰だろうか、そこにこそ本当の自分がいるのではないかと考えるようになった」。

 これは、私が講師を勤める日本の音楽療法実践者のためのクラスで「人間としての成長」の話題がとりあげられていたとき、ある50代の女性の参加者が言った言葉である。彼女は、音楽教室の講師をつとめながら自らもダウン症の子供を育て、そのつながりから年月を経て音楽療法士になった。地域の自治体とねばり強くかけ合って障害者のための音楽療法自主グループを立ち上げ、苦しい採算の中で運営している。

 自己追求よりは人との「関係」を優先するこの言葉は、もしかすると西洋を中心とする文化の読者の方にはよく理解できない、あるいは反発を感じるものかもしれないと思う。われわれ日本人にとってさえ、彼女のこの言葉は、取り方によってはわれわれの文化におけるステレオタイプな保守的生き方そのものであり、とくに進歩的な人生を歩もうとする女性にとっては、自己実現や自由な生き方を阻む長い歴史的慣習の縛りを連想させるものとして、アレルギーを起こしかねないものである。つまり、これは「個人である前にまず集団のために役に立つ一員であれ」、「集団の目的を達成するために、個人的な希望に固執してはならない」というわれわれのコミュニティの不文律の表れともとれるのである。

 私が日本で社会人となったばかりの20代には、これは到底受け入れられない言葉だったし、アメリカに留学し、自己実現への道を歩み始めていた20代後半から30代であればほとんど陳腐に感じただろう。そして帰国して日本で仕事を始めた頃の私には、ほとんど脅威として響いたであろう、というのもこれは留学から帰った日本人が日本で自己実現をしようとするとき、社会から発せられる無言のプレッシャーそのものだからだ。現在の私にとっても、この女性の言葉として直接に聞いたのでなければ、ただ目の前を通り過ぎていく「きれいごと」だったかもしれない。しかし私はこの女性の強い意志と、日本という実社会で戦った実際的な苦労、そして仕事上の人間関係で悩んだ経緯を知っていたので、その言葉が生命を帯びて語りかけてきた。

 私が若い頃に憧れ、留学先のアメリカ文化の中で強く激励されたような自己追求のかたち、つまり自分のライフワークについて自らが焦点を定め、万難を排して追求するという生き方も、ひとつの立派な方法である。しかし最近私は、公私にわたって周りの人々から自分にふりかかる様々な責務や期待が、必ずしも直接的に自分の自己実現に沿ったものでなくとも、その雑多な中になんともいえない生命感を感じることが増えてきた気がする。つまり私が「意識」の中で描き得る自己実現からはずれているけれども、何か、別のもっと大きな絵のひとつのピースであるのではないかということが感じられる、それが無意識下からのかすかな呼びかけの中に聞こえる、とでも言おうか。そしてそういった、ひとつのピースからだけでは結ばれていく理由がわからないそれぞれの絆=関係が、私の周りにひとつの布のようの編まれていって、それを別次元の目から眺めると、かすかに「意味性」のようなものが立ち上がっている。そこにはこれからの生き方についての「天の助言」のようなものがほのかに香っており、「自分とは誰であるか」というアイデンティティさえ浮かび上がろうとしている。これを一言の日本語で言えば「生かされている」ということなのかもしれない。

 これは「自ら意志決定をして選ぶ」ことが主流の西洋文化から見れば、ある意味非常に受動的な「アイデンティティ」の確立である。しかしこれは、「I and thou:私とあなた」を西洋文化ほど明確に分けないアジア社会に特有の、「人と人の関係」に基づくものなのかもしれないとも思う。ここでは「私とあなた」というよりは、「あなたにとっての私、私にとってのあなた」をないまぜにした「関係」から、すべてが思考され方向付けられていく。音楽療法が行われる社会のコンテクストにおいても、音楽療法士同士の関係というコンテクストにおいても、もちろん音楽療法士と対象者というコンテクストにおいても、これは文化としての重要な一側面である。そして私が前述の女性の言葉に深い共感を覚えたのは、この概念においてなのである。私にとってかつてあんなにうっとうしかった「日本的・アジア的関係」が、今はじめて、違う色を帯びて私の生き方や仕事の方法に関わってきているように思う。

 人の目に映る自分と自分の目に映る人の両方を暖かくすくいあげ、自分や周りの人々が内に秘めている本性や意志のさまざまなベクトルを活かしながら、有機的な共生の道を模索すること。私は、こんな「人と人の関係」の中に日本的、あるいはアジア的な療法のあり方のひとつの光を見る。そしてそういった「関係」への感覚を耕し、豊かなものに育てていくためにも、音楽はおおいに使われ得る。

 この音楽療法を比喩的にイメージするとすればこんなふうになろうか。「人と人との関係の輪郭を明確にしようと見つめるあまり、動きを止めたり線で断ち切ってしまう前に、まず相手の手をとり、お互いの呼吸から生まれるステップに身を委ねて踊ること。そのダンスの小さな、しかも無限の宇宙に流れる音楽に耳を澄ますこと。『私とあなた』でもなく、『縛り合うつながり』でもなく、何か新しい意味ある『緩い関係』を巻き起こす…そのための『ファシリテーター』として音楽療法士が位置する。」こんな絵図から、日本という文化土壌でどのような実践形態が生まれるだろうか。たのしい夢想である。

参考文献

生野里花訳「音楽療法を定義する」.東海大学出版会. 2001. (Bruscia, Kenneth (1998). Defining Music Therapy (Second Edition). Gilsum, NH: Barcelona Publishers.)

How to cite this page

Ikuno, Rika (2005). あなたの目に映る私、私の目に映るあなた: 日本の風土における療法的関係. Voices Resources. Retrieved January 15, 2015, from http://testvoices.uib.no/community/?q=fortnightly-columns/2005--0

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