class="jpfirst">春..一息入れる季節。毎年3月後半から4 月始めにかけて、私の仕事にはほんの少しのブレイクがやってくる。「そのときが来たらやりたいこと」を楽しみに思い描きながら、私は何週間も何ヶ月も走り続けてくる。仕事場を整理してもっと使いやすくしよう、自分の心の欲する本を読もう、自分の音楽を奏でる時間を持とう、子供のおもちゃを整理してやってわくわくするような遊びをいっしょにしよう、街に出かけて地域の人と新しい出会いをしよう、ひとつでもいいからいい映画やコンサートにいこう.。しかし春と言う季節は、そんな心急く夢をすべてがっしりと受け止めるにはあまりに不安定で気分屋。ふとした突風が軽々と私の心をかつぎ上げ、憂愁の洞窟へと誘い込んでしまう。
春..税金申告の季節。今年の春休みはこれから始まった。私は苦手な計算機や書類に無理矢理向き合わされる。あらためて数字を並べてみると、収入面では危うさが増大し、一方で必要経費も増大しているという事実がつきつけられる。いったい私は一年間何をしてきたのだろう?私は社会にとって必要な人間か?自分では、私のしているような仕事がお金に換算しにくいものであることを理解し、納得しているはずだが、一般社会はそんなことを認めようとはしない。すべてをお金に換算するよう厳しく求めてくる。仕事の報酬も、そのための経費も、仕事をしているために必要となる子供の保育の費用も、すべて数字ではじかれる。私の中でたくさんのうめきと迷いと不安と自責がうまれる。私は現実社会から遊離した幻想に固執しているだけの愚か者なのか?そうではないというのなら、そもそも私の目ざすしごととはどんな形で、どんなふうに社会と折り合いをつけるのか、明確に言ってみたいものだ。
春..年度替わりの別れの季節。私がアシスタントとして通ってきた施設の2-3歳障害児の音楽療法セッションも、年度末を持って解散された。多くは自閉的な傾向がある子供たちで、この施設で最初の療育を受け、障害児向け保育園、一般の保育園、幼稚園などの次の進路に分けられる。障害という負担を背負う人生の道のりの入り口にいる親子にとって、決められた日にこの施設へ連れてくるだけでも心身ともに大変な作業であっただろう。それは、私自身が3歳児を持っているだけにひしひしと感じられる。そして同時に感じられるのは、どの子供も障害の向こう側にその子なりの体温、呼吸、いきいきとしたその子らしさを持ったユニークな存在であり、全身で訴えていることである..「ありのままの私と出会って!」と。私にはひとりひとりがわが子と重なり、無条件に愛おしい。思う存分音楽の世界ではばたかせてやりたい、と思う。でもここはいわば移行のための施設であり、長期間を見据えた療育よりも、進路の振り分けのための介入-多くは着席行動などの社会的スキル-が中心である。よって、私たち音楽療法士も普段はたくさんの規則と構造の中で子供と接することが求められ、音楽の時間はその複雑なスケジュールの中の小さなひとこまに過ぎない。しかし年度末最後の日だけは、かけよってくる子供を抱きしめたり、こだわる楽器に少しだけ長くさわらせてやったりすることができた。そしてその後、母親と子供たちが決められた方向へと去っていくのを、私たち(メイン音楽療法士と私)は見送った。母親と私たち双方の胸の中にはさまざまな複雑な思いがあったが、今はそれを口に出して交換するのにふさわしいときではなかった。からになった部屋でふたり顔を見合わせ、感じるものは、言葉にならない現実への徒労感と、手の届かないところへいってしまった対象への祈り..。社会の既存構造や既存概念の中で音楽療法の理想を追求することは生易しいことではない。
春.手帳と仕事の依頼表を見比べ、次年度の予定を立てる季節。自分の仕事の進む方向をあらためて考えさせられる。手始めに、この2月にある地方支部で自分の行なった講演「音楽療法の音楽--今もう一度音楽家として、人間として--」のDVDを見返してみた。これは、私にとって時間のかかる大きな仕事だったし、ある意味で一年間の集大成でもあった。1ヶ月たって興奮やほとぼりのさめた今、自分は何を言おうとしている人間で、それは客観的に見てどういう存在なのか、のぞいてみた。私がさまざまな臨床例を挙げながら言っていたことはこんなことだった。
しかし実際にDVDを見返して見ると、思っていた以上に私の話は深まりに欠け、実践者を納得させられるだけの実感が薄いように思えた。それは私自身の音楽療法士としての姿勢への疑問にも結びついて、私のアイデンティティを根本から揺さぶった。そして来年度の仕事をどのようにしていったらいいのか、という私の問いは、思ったよりもずっと前のスタート地点に戻ってしまった。
春.一息入れる季節。毎日の早急の仕事に追い立てられて走っている間は感じにくくなっていた、自分への憂愁があらわになる季節。私は心身ともに疲れていることを実感する。願わくばこの短い休みの間に十分休息をとり、エネルギーを高め、新しい視野を開かれ、新しい出会いをし、自分をいっぱいに生きているという感覚を取り戻したい。古い自分を脱ぎ去るための力をたくわえたい、そしてそれを支えるための暖かい日の光を浴びたい。
.そうため息をついたとき、私の中でかすかな声がした。「私がめざすべき音楽療法の仕事とは、まさにそういう場を他者のために創ることなのではないか!?」同時にある作家の言葉がよみがえった。「癒されたいという現代人は多い。しかし他者を癒そうとして立ち上がった人にだけ、わずかにそのチャンスがある」(Arai, n.d.)。
春..私の中のあちこちでいろいろなきしみの音が聞こえる季節。そしてそれを新たなしごとの形へと創っていく作業に取りかかる季節。かすかな希望。
Arai, Man (n.d.). Iyashi no Yukue [The Direction of Healing]. The NHK Television Program. (新井満、NHKテレビ「癒しのゆくえ」において.)
Bruscia, Kenneth (1998). Defining Music Therapy (Second Edition). Gilsum, NH: Barcelona Publishers. (生野里花訳「音楽療法を定義する」.東海大学出版会. 2001.)
Stige. Brynjulf (1998). Aesthetic Practices in Music Therapy. Nordic Journal of Music Therapy, 7(2).
Ikuno, Rika (2005). 春の憂愁: 一音楽療法士の内省. Voices Resources. Retrieved January 15, 2015, from http://testvoices.uib.no/community/?q=fortnightly-columns/2005-
Moderated discussion
These discussions are no longer supported. If you have comments to articles in the Voices journal, please register yourself at < href="http://www.voices.no">www.voices.no Then you can leave comments on all the published articles
You are alos welcome to leave us a message on our Voices Facebook page