音楽療法士の人物像 —〈普通の人〉にとどまる重力—

 ある音楽療法士が、こう打ち明けた。「私は“療法士"などという肩書きを標榜しているのに、仕事上の人間関係で起こる問題にはちっとも心穏やかに対処できていない。こんなことでいいのかと自分を責めることがある。」音楽療法士グループのリーダーとして活躍中の方である。また、別のある若い音楽療法士はこう言った。「対象者の方の力になりたいなんて言いながら、自分の心の内を見ると、本当は自己中心的なものがいっぱいで、恥ずかしくなる」。

 極端な考え方と思われるかもしれない。しかし日本のように音楽療法がまだ職業として十分に確立しておらず、個人の善意や努力に頼る部分の大きい社会では、こういった悩みにいつのまにか迷い込むことが多々ある。音楽療法士とは、「よい人」でなくてはならないのだろうか?

 そこで私は「音楽療法士の人物像」ということを考え始めた。確かに、優れた音楽療法士には、人物的な魅力を感じる人が多い。誰でも「音楽療法」という領域に深い関わりを持つようになった過程には、優れた先輩音楽療法士の人格との出会いや、その影響を受けた経験があるだろう。つまり「言っていること、書いていること」だけでなく、その人が「していること」や「たたずまい」そのものに勇気づけられ、後押しされたという経験である。

 逆に、「この分野では偉い人らしいけれど、実際に会って話を聴いてみたら、なんだかちょっと違和感があった」という印象を持つこともある。そういうときは、いささかがっかりしながらも、「でも業績の上ではすごい人らしいから、私情で判断してはいけない」などと自分に言い聞かせたりもする。さらにはある人から業績も人物もすばらしいという印象を与えられ続けると、「そんなことって本当だろうか、もしかしたら作られた仮面なのではないかしら」という感情が芽生えてきたりするのも、人間の常である。それが、人が“ゴシップ"を好み始めるきっかけになるのかもしれない。ともあれ、私たちは音楽療法士にどんな人格を期待しているのだろうか、そしてそれは的を射ているのだろうか。

 「音楽療法士の魅力的な人物像」に共通して感じられるものに、まず「人への対等な目線」があるだろう。高度に工業化された社会ほど、人間を能力や機能、健康と不健康などによって分け、有形無形の差別をしがちだが、音楽療法士は、その両方をかけがえのない存在として根本的に認めようとする姿勢を持っている。それはとりもなおさず、私たちが「音楽」という、対等で普遍的な媒体を手にしているからだろう。優れた音楽療法士の音楽は、人を分け隔てしない。彼らの魂には、人のありのままの存在への愛情がこんこんと沸き出しており、それが耳に聞こえる音楽となって発露しているようだ。

 次に「勇気と行動」が挙げられるだろう。私たちは日頃、慣習的な「言語的」な人間関係、あるいは今日の日本で急速に蔓延しつつある「デジタル的」人間関係の小さな世界に封じ込められる傾向にある。しかし優れた音楽療法士は、ときにまったく違う方向から働きかけ、大胆とも思える方法で新しい次元の人間関係を築いたりする。それは、勇気と行動力に象徴される「音楽的な人間関係」と言い換えることもできるだろう1)。セッションでのコミュニケーションに「音楽」を自由自在に使いこなせるという意味ばかりではない。音楽療法士はあらゆる人間関係に「音楽的」な色調を持ち込むことができ、「人と人の相互関係とは何か」ということを新鮮に、また立体的にとらえ直させてくれる。

 また、そうした音楽療法士たちは、社会生活においても際立った「勇気と行動」を示すことがある。経済や社会的地位が支配しがちな「おとな」の世界の常識からすると、考えにくいような生き方を決断し、実行していくこともままある。断片的に見ると「物好き」あるいは「自殺行為」さえ思えるような個々の決断と行動が、全体的に有機的つながりを持ったとき、その人物像は周りの人に強い印象を与え、伝播し、周りの生き方をも変えて行く。私は最近、現代音楽療法界の巨塔であるクライヴ・ロビンズの自伝的モノローグ「音楽する人間」を訳出したが、彼の生き方を俯瞰してみて、これを痛感した。私たちのごく身の回りにも、小さな「勇気と行動」で日々の生活を刷新している音楽療法士は多くおり、彼らはとても魅力的である。

 三つ目に、「論理性と伝達力」がある。それは、上述のような実践的な生き方や人との関わり方を、ひとつの理論や系統だった方針として整理し、他者に伝達できることである。言い換えるなら、優れた音楽療法士たちは、上に述べたような物事の処し方に、持って生まれた性向やナイーブな未熟さのままに「陥っている」のではない。療法士としての成熟の過程においてそれを創り上げたか、あるいは選び直し、意識化している。その整理の方法は直観的、数量科学的、現象学的など様々であろうが、優れたプロフェッショナルほど、話がわかりやすいというのはひとつの真実ではないか。

 しかしここでもういちど、冒頭の二人の告白に戻ってみよう。これまでに挙げた三つの「条件」だけでは、彼らはますます息苦しくなってしまうだろうか?私はもう一度、魅力あふれる音楽療法士たちの姿をイメージしてみた。そして、最も助けになるかもしれない、もうひとつの「条件」に思い至った。それは、療法士として偉大な分だけ、「普通の人」としての重力も増していくということである。いうならば、どこまでもその人らしく、小さな等身大の人間に「とどまっている」能力が感じられるのである。彼らが、すべてを治めてやり遂げようとするような聖人君主的な野心や、弱者を生み出す世界を裁いているような傲慢さとは対極にいるのはいうまでもない。それどころか、「音楽療法士だから、〜な生き方でなければならない」とか「自分は他人の援助に生涯を捧げた者のはずだ」という気構えも感じられない。むしろ、そのように自分を追いつめる間違いを注意深く迂回する能力を、意識的・無意識的に身につけているようなのだ。その結果、誰よりもいきいきと、「普通の人」を生きている。

 それは、「仕事を離れたら援助者のプロとしての仮面を取って、プライヴェートの顔に戻る」とかいう単純なことではなさそうだ。「謙虚」という言葉で表現することもできるかもしれないが、ただへりくだっているとか、能力を隠すとか、いわんや力の及ばなかったことに言い訳をするとかいう意味ではない。自己卑下やわざとらしさによる「謙虚さ」は、独特の匂いを持っているものだ。

 彼らは音楽療法という領域で「人間を愛と勇気で見て、音楽的に包む」という新しい視点を培ってきた結果、同じ方法で自分自身ともつき合う方法を身につけているらしい...あたかも、関わっている相手と同じ庭に自分をも放し、微笑みをたたえてその様子を見ているかのように。そのいさぎよい自分への降伏は、いわば"脱力の技"であり、実は、人—他者も自己も—を活かすための最強の姿勢なのかもしれない。

1) 生野里花. 音楽療法—音楽と人の古くて新しい出会い—. アエラムック新心理学がわかる〔現場から〕. 朝日新聞社.2000.

How to cite this page

Ikuno, Rika (2007). 音楽療法士の人物像 —〈普通の人〉にとどまる重力—. Voices Resources. Retrieved January 08, 2015, from http://testvoices.uib.no/community/?q=colikuno311207j