音楽療法士のオープンハウス -“すこやか”で“ふつう”であるために –

日本の音楽療法士は忙しい。待ったなしのセッション、たまっていく記録、360度方向に無限に広がる知識獲得の要求、新しい専門書を読むこと、講習会に出かけること、楽器や役に立ちそうな備品を捜し購入すること、楽器を練習すること、教える仕事、頼まれた記事やレポートを書くこと、学会の発表を準備すること、そしてもしそれだけやっても収入が追いつかなければ、専門外の仕事も入れなければならない…。その間にも毎日食事をし、住んでいる場所を最低限快適に暮らせるよう管理し、調子を崩せば医者の順番待ちに並び、家族との時間も確保しなければならない。しかも雇用の安定や職場環境にあぐらをかくことは一日とて許されず、常に「攻め」の姿勢をとるか、少なくともアンテナをはりめぐらしていなくてはならない。こんなスーパーマンのような生活をできるのは、一重に私たちがこの仕事を好きだからだと思うが、それでもときに疲れ果て、ささいなことに傷つき、自分や他人のしていることに疑心暗鬼に陥りそうになっても不思議はないだろう。しかし音楽療法士としての現実の生活はそんな悩みに浸っている暇を潤沢に与えてはくれない。毎日、進んでいかなければならないのだ。

こんな生活は、人間として健康とは言えないと誰もがわかっている。そればかりか私たちの視野をせばめ、いつしか気持ちを防衛的にし、それはすぐにセッションのマンネリ化に反映されていくはずだ。そしてその悪循環は私たちを孤立させる。こうした状況を誰かと語り合うことで風を入れられれば、と思うが、それは単なる愚痴の言い合いをしたりアドバイスをもらったりしたいわけではない。いわんや新しい知識を仕込むことでもない。ワークショップやグループカウンセリングは重すぎる。ただ、心のスペースが広がったり違う景色が見えてきたり、聞こえなかったものが聞こえてくるような、適度な距離と親しさを保った安全な交わりの場があれば…。しかし誰と?この仕事のことが全くわからない人ではだめだし、といって同業の人にむやみに自分をさらけ出すことはいろいろな意味で危険を伴う。どこで?セッションルームや学校ではなんだか息が詰まる。いつ?私たちに余った時間はないし、仮にあったとしてもただ仕事のことを話すのなら、休みにまで仕事仲間と過ごしたくなどない。

 世界の音楽療法士は、そんなときどうしているのだろう。音楽療法士どうしの絆は思ったより遠く、思ったより複雑だ。そんな思いから私は、ここ数年、ときどき音楽療法士とその家族を中心としたオープンハウスを開くようになった。始まりは、単に親しい仕事仲間に遊びにきてもらったことだったが、次第に私の中でそれに「人のつながり」と「音楽」に関して暖めていたコンセプトが重なり、意識的に企画するようになった。そのキーワードは「まじめでない遊び」「情報交換でない交わり」、そして「先延ばしにしないで今すぐにやること」である。

 常々、私は日本の音楽療法士の集まりはまじめすぎると思ってきた。アジアの国が多くそうなのか、それとも日本がとくにそうなのかはっきりとはわからないが、アメリカから帰国して最初に日本の音楽療法士の勉強会に参加したとき、私はふたつのことに驚いた。ひとつはそれがボランティによる運営だったにも関わらず高度に組織立っていたこと、そしてもうひとつは主催者も参加者も、秩序正しく勉強することだけに集中していたことだった。何気ない会話や笑い、そして集まりにつきもののいくつかのもめごとさえも、「私たちは音楽療法を学ばなければならない」という強い、しかし狭い大前提の上に起きているようだった。もう少し具体的に言うと、「私たちはまだ遅れているのだから、少しでも前に進まないといけない」という気風が満ちていて、周りと話すにしても「交わり」というよりは「情報交換」の域をなかなか出られない。

 しかし音楽療法の道のりが遠くて困難で「まだ遅れている」のは何も日本やアジアに限ったことではないし、取り組まなければならない勉強、深めなければならないセッション、進めなければならない研究は世界に共通して山積みだ。音楽療法士の世界はどこであろうと忙しく、多くのプレッシャーを抱えている。だからこそ、日々、それだけと格闘していると、私たちは自分の人間としてのあり方や周りの人との交流など後回しにしてしまいがちなのだ。(後回し、と言いながら私自身を振り返っても、もう10年以上になる!)

 でも、私たちはクライエントのセッションだけを切り取って「自分と相手の健康な在り方を追求する」ことはできないのであり、「自分自身のすこやかな在り方」を「実際に生きているふつうの空間や時間で互いに触れ合わせる」ための生きた体験が必須である。といって、こうしたことを教訓的お題目のように唱えても意味はないし、本質からもはずれてしまう。何も聖人君主を創ろうというのではないのだから。

 そういうわけで、私は「遊び心」のある「交わり」を「今すぐに」やろうと決めた。そう思ってもういちど自分たちを見てみると、私たちは、職業上人間や音楽に関するたくさんのリソースを持っているのだった。できることはたくさんあるはずだ!私はこんなルールのもとで、何人かの仲間に声をかけることにした。

一皿持ち寄り

気軽に集まるため、ポットラックは必須条件である。凝ったものでなくても、人の作ったもの、選んだものは珍しいしおいしい。しかも料理は音楽と似て、その人らしさやクリエイティビティを表わす時間のアートであるし、その後のおしゃべり(言語化)の種になる。仕事の顔からプライベートな顔に少しだけシフトする糸口としてはうってつけである。

一曲持ち寄り

音楽療法士は自分の音楽を楽しむ時間がないというのは万国共通のようだ。それは練習をさぼる言い訳としても普遍的だ。しかしこの集いに参加する人は、何か音楽を持ってこなければならない。演奏してもよし、人を巻き込んでもよし….「うまい」ものでなくてもいいが、つまらないもの、心のこもっていないものは披露しにくい雰囲気である。

家族や友人を連れてきてもいい

音楽療法という仕事をしていくために、私たちはみな、多かれ少なかれ、生活上の周りの人の力を借りたり寛大になってもらったりしている。考えてみればこんなにはた迷惑な職業はない….音は出す、物や楽器はたくさん保管する、時間や場所は人一倍使う癖に金銭的には報われにくい、明けても暮れても茫然とした目つきでセッションのことを考えている、これだけの理由で足りなければ、こんなわかりにくく説明しにくい職業の家族やパートナーを持っているだけだって何かと不便なことだ。それなのに私たちはこの仕事の面白さと重要さに目を奪われ(確かにこの仕事はとてつもなく面白くて重要だ!)、いい気になって仕事に邁進しがちではないか。だから私は、そんな周囲の人に感謝を表せるということは音楽療法士の資格条件のひとつだと思うことがある。それは私たち自身を客観的な目で認めることでもある。そこで、この集いには家族や友人を連れてきて、いっしょに楽しむことで感謝を表す機会にしてもらおうと考えた。ついでにその人たちにも音楽療法士のすてきで楽しくて有能なところを理解してもらうヒントになれば….。

 そういうコンセプトでつい先週も8人の音楽療法士と4人の夫(日本では夫婦でこうした催しに参加するというのは、決して多いことではない)、それに3人の子どもが我が家に集まった。テーブルに所狭しと並んだそれぞれの得意料理や創作料理、郷土料理を少々のアルコールとともに満喫し、そろそろ子どもが退屈しだしたころ、私たちは音楽室へ行って床に座った。

 そこで繰り広げられたのは、クラシックからアニメソング、ラテンなどさまざまな音楽に詩の朗読なども加わり、夫婦同士のアンサンブル(27年の結婚生活で初めてだそうだ!)、親子のアンサンブル、全員を巻き込んでの即興など、どれもその人らしく味わい深いものだった。

 音楽家にとって音楽を人前で演奏することは心理的に決して易しいことではない。これは私たち自身、認めなければならない。しかし状況設定というかたちで無理にでもそれをやってみることによって、次第に空気がほぐれ、お互いが適切な角度と度合いでさらけ出され、そして言葉の上でも親しくなっていくようだった。音楽療法士としては、いつも「音楽の効用」として同僚や学生に説明している至極当たり前のことだが、自分たちが普段着でそれを行なうことは、なんとまれなことか。 

 その後、私たちは再びリビングに集ってティータイムをする。音楽をしたことで、すでに昼食のときとは違うあらたな空気が生まれている。私たちはさっき以上に自由に話し、黙り、部屋の中を動いているのだ。そうするうちに、話題がごく自然に最後に仕事について考えることや仕事上の仲間のことになった。そこには、言いにくいことを敢えて言ったり、反対意見を差し挟んだり、さらに突っ込んで尋ねたりといった、普段の私たちの表面的な会話では安全のため蓋をしてしまうこともちょくちょく顔を出した。しかし同時に、そこには白熱し過ぎたり、愚痴やゴシップに落ちていかないための目に見えないストッパーが働いていた。音楽療法士の夫たちはこうした会話に耳を傾けて妻の職業についての知らなかった深いテーマを感じ取ろうとしたり、あるいは「音楽療法士の夫」という同じ境遇にある者同士(音楽療法士よりさらに孤立しがちだ!)で新しい友好の輪を作っていたりした。そして暗くなるまでの間、居たい人が、居たいだけ残り、子どもと遊んだり片付けをしたり、また食べたりしゃべったりした。

 こう書いてみると、なんと当たり前なふつうのパーティだろうか、と思う。しかしこういう場がなんと日本の音楽療法士にはないことか、とも思う。私たちがクライエントには要求する、ふつうにすこやかであること、ふつうに音楽すること、ふつうに交わることを自分たちには忘れていないか。それはもしかして、私たちにとってとても重要なことなのではないか?

How to cite this page

Ikuno, Rika (2006). 音楽療法士のオープンハウス -“すこやか”で“ふつう”であるために – . Voices Resources. Retrieved January 10, 2015, from http://testvoices.uib.no/community/?q=colikuno220506jp