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ラストソング

佐藤 由美子

ここ数年, 私はホスピスの音楽療法士として、死に近い患者さん達の話を聞いてきた。病気と共に生きていく事に疲れた患者さんは、「もう死にたい」と言う。人は自分の致命を誰よりも良く分かっているから、患者さんの言葉が「もう死にたい」から「もう死にます」に変わった時、私は彼らが死に近いことを悟る。そういった患者さんは大抵2,3日中に亡くなる。どうしてだかはわからないが、認知的な能力が弱まった患者さんでさえ、自分の死を察するようだ。この「死が近づく認識」というものを最初に教えてくれたのは、インターン時代に出会ったハーブという患者さんだった。

数ヶ月の間、週に1回、郊外にある古く混雑した老人ホームにハーブを訪ねた。低い天井、色あせた青いカーペット、強いバニラの臭いを思い出す。その秋の午後の訪問は最初は普段と変わりないように思えたが、振り返ってみると、普通ではない出来事だった。

その日の午後、ハーブは前の週より穏やかだった。時には動揺して好戦的になるハーブは、まるで悪魔から逃げるように、車椅子で廊下を行ったり来たりする事もある。ハーブはアルツハイマーの最後の段階にいたので、性格も変わり、認知能力もなくしていた。時折ぶつぶつ言う事を除けば話す能力も無くなり、言葉を認識する能力さえない。毎朝起きるたびに自分がどこにいるのか、自分が誰なのかもわからない、というのはどんなに恐ろしいことだろう。

会話はハーブを動揺させた。誰かが話しかけるとハーブは額に皺を寄せ、神経質になり怒りだす。アルツハイマーの病気は、ゆっくりと進行しながら特徴を現していく。ハーブの病気が進行すればするほど、家族や友達からの訪問も少なくなった。ハーブにとって音楽は、唯一認識することができるものだったので、私たちは音楽を通して会話をした。音楽はハーブに安らぎを与えたのだ。

ギターで懐かしい曲を弾くと、ハーブの顔が明るくなった。「これが今日最後の曲ね。」と言ってハーブの1番好きな曲、「What a Wonderful World」を歌う。拍手しなくてもいいよ、と以前に何回も言っていたのだが、ハーブは歌の最後にいつものように拍手した。窓から差し込む太陽が反射して、彼の笑顔を穏やかに見せた。棚の上の海軍の帽子と、ミュージックテープのコレクションだけが、昔のハーブを思い出させるものだ。彼はもう自分の娘の名前さえも覚えていない。でも昔の音楽は覚えている。

帰りの準備をし、「今日はまた会えてよかったね。」というと、ハーブは穏やかな表情で私の顔を見た。ギターをケースに入れ、ドアの方向に歩いていくと、後ろから、突然ハーブの声がした。「君のために歌を歌うよ。」

振り返ると、いたずら好きな子供のように笑っているハーブの顔。彼がこんなにはっきりと話したのは久しぶりだ。今まで歌う事は唯一拒否していたハーブだが、実は昔歌手だったという理由で、ホスピスの看護婦のダーナがハーブを音楽療法に参加させたのだった。でもハーブはいつも「もう歌えない。」と言っていた。

ハーブの隣のいすに座ると彼はまだ笑っている。

「Bフラットでいい?」とハーブに聞かれ、思わず笑いそうになった。ハーブは私に伴奏して欲しかったのだが、彼が何を歌うのが全くわからない。Bフラットを弾くとハーブが歌い始める。ギターから目をそらし、まるで他の場所と時間の中にいるかのように、空間を見つめるハーブ。音程は外れていたが、低くぬくもりのある声。昔は堪能な歌手であったのだろう。普段はセンテンスを作る事させ苦労するハーブから、言葉が容易に出る。その美しくノスタルジックなメロディーは、昔ハーブが誰かと過ごした日々を反映するかのようだ。ジャズの曲のようだったが、聴いた事のない曲。

曲の最後、ハーブがいつもそうしたように拍手すると、ハーブは私を見て笑った。その瞬間私は始めて本当のハーブの姿をみたような気がした。音楽に満ちた人生を送り、ユニフォームを着て国のために戦ったハーブ。そして妻を若くして亡くし、娘を立派に育てたハーブ。ひどい病気のために、ハーブの本来の姿はその中に隠れてしまっていたのだった。

オフィスへ戻る途中、私の心は疑問でいっぱいだった。何でハーブは突然歌を歌ったのだろう?あの歌には何の意味があったのだろうか?2日後ハーブが死んだとき、もしかするとその答えが出たのかもしれない。ホスピスのスタッフを含め、みな彼の突然の死に驚いた。ハーブの死が差し迫っていることをホスピスが報告しなかったと、娘のキァシーは気を取り乱した。看護婦のダーナが、ハーブは過去の数週間様態に変わりは無く、医者でさえも彼がこんなに早く死ぬとは予想してなかった、とキァシーに説明した。そしてハーブがなくなる2日前のミュージックセラピーでの出来事もキャシーに報告した。するとキァシーは、昔ハーブが良く歌っていた特別なジャズの曲があり、その曲を亡くなる前に歌ったのではないか、と言った。

ハーブは自分の死を潜在意識で悟っていたのだろうか?ハーブのような患者さんに何人も出会った今、彼は死を悟っていただろう、と思う。死ぬ人はみな自分に迫った死というものに気づくのだと思う。もしかすると、だからあの日ハーブは歌を歌ったのかもしれない。それが確実にわかることはないだろう。1つ言えるのは、彼の歌はキァシーへの最後の贈り物になった。たとえ短時間であっても、あの日ハーブが自分らしく居られた、という事がキァシーに安らぎを与えたからだ。彼の最後の歌は死の不思議さ、というものを教えてくれた。

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Voices: A World Forum for Music Therapy (ISSN 1504-1611)