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日本における音楽療法の現状と展望

1. 日本の音楽療法の急速な発展

巻末の資料にもあるように(日本の音楽療法の現況)、日本の音楽療法は1990年代から2000年初頭にかけて急速な展開を見せた。その結果、一般社会における認知度は上がり、音楽療法を専門とする職業人・学生も多く育ちつつあり、音楽療法の活動は全国規模で広がった。そこにはそれ以前の先輩音楽療法士たちの献身的な努力があり、社会的機運を得て結実したのだと言えよう。

2. 日本の文化:その伝統的、複合的、そして過渡的な性質

さて「文化」と言ったとき、日本において「伝統的」文化だけが重要な役割を果たしているわけではなく、きわめて複合的で過渡的な文化現象がこの社会を支配している。この複合的性質は、恐らくアジアの多くの国で共通するのではないだろうか。例えば、日本人は意識・無意識レベルの両方でその行動様式を規制している伝統的慣習に加え、アメリカ文化の強い魅力からの影響、われわれの両親の世代に指導的役割を果たしたヨーロッパ文化の存在からの重厚な影響、そして特に若い世代によるアジアの国々とのカジュアルな文化交歓(ここには日本の伝統文化を新しい目で受け入れる傾向も含まれる)などの影響を受けている。こうしたものがすべて混ざり合い、互いに影響し合い、そして変化していっており、どれひとつをとっても私たちの日常生活に主要な力を持っているとは言い難い。それはあたかも、日本人は生活の違った部分に合わせて違った文化を使い分けるという特質をもっているかのようである。そしてこの面が典型的に表れているのが私たちの食生活様式と音楽であろう。

3. 日本の音楽療法の臨床的視点

・ 集団と個人の捉え方

まず、臨床的な面で、私が日本の音楽療法の重要なテーマであると感じるのは「集団:個人」の捉え方である。日本の音楽療法にはすぐれた集団セッションが多くあり、伝統的な価値観である「和」を日本人の「健康な在り方」の支えとして活用している。例えば、日本人の集合的アイデンティティとも言える独特のリズムや歌を使っての集団歌唱は、高齢者へのアプローチの定石である。日本人は「集団」というものに対して高く特別な価値を置いており、その情緒的/実際的な歴史は長く、また深い。よって、このテーマを西洋的な音楽療法メソッドによって単純に分析したり結論付けることはできない。日本の音楽療法士の特別な研究と理解が必要とされている部分であろう。

・言葉や表現の独特の位置付け

 

図1: The Language Process in Western Culture

 

 

図2: The Language Process in Japanese Culture

 

日本人は「言葉を慎む」ことで自己の存在を深く生きようとし、「沈黙している」ことで雄弁な表現をしようとすることがある。こうした傾向はクライエントがその内的世界を言語化するときや、家族が療法の見通しについて言語化するときなどに独特の表れ方をする。日本人にとっては、言ったことやその言い方だけでなく、注意深く言われなかったことや実際に取られた行動も「表現」の一部に含まれるのである。

・ 療法の目的「Doing」的価値と「Being」的価値

次に、専門職としては新顔である音楽療法士として実践の現場に参入していった私自身の経験から、療法の目的ということに触れたい。現場で他の専門職と肩を並べて仕事をしていると、その日の仕事の成果について同じ記録用紙に書き込める場合と書き込めない場合がある。書き込めなかったときは、音楽療法士だけが何か無駄な時間を費やしてしまったようで気が引ける。なぜなのだろうか。私は長い「悩み」の末、あるときからわれわれ音楽療法士の達成を「doing」と「being」に整理して考えるようになった。「doing」の健康とは「機能していなかったことが機能するようになる」「できなかったことができるようになる」「数量的に見て明白な向上を見る」ことであり、一方「being」の健康とは「何かができなくても、機能しないままでも、人間として満ち足りてくる、存在がより健やかになる」というものである。

 このセッションにおいて、子供とその母親はセラピストの作った歌を聞いているだけである。歌詞はすべて療法士である私の想像によるものであったから、クライエントは「作曲/創作」の部分にさえ参加していない。そして母子は歌の印象を言語化することもなく、その結果と言えば、子供がこの歌を気に入ったのかしばしばリクエストしたこと、母親が涙をときに涙をぬぐっていた(しかし一言も言わない…日本人の典型的な表現である!)ことくらいである。それでも私は、この活動がありのままの「存在=being」をふたりにもたらし、療法のプロセスにおいてかなり大きな価値があったと考えるのである。

4. 日本の音楽療法の学問的視点

さて、1990年代から2000年初頭の日本の音楽療法の発展の過程で、最も後回しになっているのが学問的領域ではないだろうか。その背景としてひとつ感じることは、日本人は一般に「考え、創造する」ことより「型を受け入れ、習う」ことで成長しようとする習慣があることだ。この教育-学習の姿勢は、われわれ日本人の文化に深く根付いている。例えば、歌舞伎などの日本の伝統芸能の教育制度では、生徒(弟子)は早い年齢から先達の演技を「注意深く見る」ことと「真似る」ことを訓練され、一人前のプロとして本当に認められるまでは、型に疑問をさしはさんだり、自分の様式を創り出したりすることは一種のタブーである。この教育様式は、子供だった私が西洋クラシック音楽を学んだときでさえ前面に押し出されていた。「疑問を持ったり自分勝手な発想をしたりしない」ことは、日本の「教育-学習」文化に暗黙のルールとして浸透しているのである。

5. 日本の音楽療法の専門職的視点

さて専門職としての音楽療法については、当然のことながら「音楽療法士の地位の確立」、とくに経済的状況についてのテーマが挙がるだろう。日本の音楽療法士のほとんどは非常勤であり、報酬も不安定、あるいはマイナスになることもあるほどで、アルバイトや家族の支援によってなんとか続けている状況が多くある。

     

6. 結語:社会への新しい価値の提示としての音楽療法

こういった状況で必ず言われるのは「外国と同じようにはいかない、日本社会には日本独特の政治の方法があるのだから」という論理である。しかし、西洋と日本の音楽療法のはざまを歩んで来た者として思うのは、これは「外国に合わせるか、日本に合わせるか」という問題とは少し違うということである。そもそも音楽療法というのは、西洋であろうがアジアであろうが、既存の社会からどこかはみだすような性質を持っており、受け入れられることだけをめざすと、袋小路にあたるように思う。むしろ音楽療法は、既存の社会を揺り動かしていくもの、人間と関わる音楽という、既存の文化にとって新しい価値観、(あるいは深い価値観)の提示をしていくという可能性をはらんでいるのではないか。

References

Ikuno, R. (2002a). Music Therapy Growth in Japan – The Richness and the Confusion of Transition. In Kenny, C. & Stige, B. (Ed.). Contemporary Voices in Music Therapy. Oslo: Unipub Forlag.

Ikuno, R. (2002b). Music as an “Expressive” Therapy. In Kenny, C. & Stige, B. (Ed.). Contemporary Voices in Music Therapy. Oslo: Unipub Forlag.

Sakurabayashi, H. (1993). Ongak-ryoho towa [What is Music Therapy?]. In Sakurabayashi (Ed.). Ongakuryoho Nyumon [Introduction to Music Therapy]. Tokyo: Gendaigeijyutu-sha.

Stige B. (2002). Culture-Centered Music Therapy. NH. Barcelona Publishers.